デイリースポーツを一般紙に!・・・という訳では無い。


by CurryBeans
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安土城屏風絵ヤバイ

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(これはレプリカ)

信長が贈った安土城屏風、1592年までバチカンに──現地で邦人研究者ら調査
織田信長からローマ法王に贈られた安土城の屏風絵を捜すためローマに滞在中の若桑みどり・千葉大名誉教授らは9日、屏風は1592年までの7年間、バチカンに収蔵されていたことが分かったと発表した。屏風は伊東マンショら少年4人の天正遣欧使節が1585年3月、当時の法王グレゴリオ13世に献上したが、現在は所在が分かっていない。今回の調査で、1592年7月13日にベルギー人の骨董収集家ウィンゲが、バチカンの「地図の画廊」で屏風をスケッチしたことが、ウィンゲの書簡から分かった。18世紀にフランスのイエズス会士が出版した本には安土城の絵が載っており、屏風が法王からの贈り物としてフランスに渡った可能性もあるという。
(´・∀・`)へー、屏風探しか、面白いなぁ~。と思って調べたら、安土町が大まじめにやってるのね。
ちなみにバチカンにあったと確認された最後の年(1592年)は、日本では秀吉の第一次朝鮮出兵(文禄の役)が起こった年。

しかし、屏風絵って改めて見るとスゲーなぁ。
奈良時代から始まって、桃山時代に独自の文化として完成の域に達したらしいが、単に間仕切りとしての実用性に、観賞用の絵画としての芸術性を持たせるところとか、屏風絵師は実用性とデザイン性の両立に頭を悩ませるインダストリアル・デザイナーや、インテリア・デザイナーの先駆けだよな。さらに屏風を広げた時の横長大画面というのは、HDTVのフルハイビジョンや、劇場映画のシネスコサイズっぽいし、折りたためばコンパクトになるのも素晴らしい!

以下、安土町の幻の屏風絵「安土城之図」探索プロジェクトより。
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◆安土城の本当の姿を求めて◆
1970~80年代
歴史・建築研究者の中で、「安土城の本当の姿」について議論が巻き起こる。
幻の屏風絵「安土城之図」が注目される。
1984年
滋賀県が中心となって、バチカンを現地調査。屏風絵の所在は突き止められず。
1992年
スペイン・セビリア万博にて、安土城天主が復元・展示される。
1994年
安土町文芸の郷に、安土城天主「信長の館」オープン。
2004年
安土町、20年ぶりに屏風絵に関する調査をスタート。
2005年
現地調査(2005年屏風絵探索プロジェクト)を行う。

◆今も残る安土城の謎◆
・安土城は、1582年に完成からわずか3年で焼失。
・その全容を知る資料は未だ見つかっていない。

◆なぜ「屏風絵」が重要なのか◆
・屏風絵には安土城とその城下町が描かれている。
・信長は、絵が実際と少しでも異なっていた場合、そのつど何度も作者に書き直させた。
 つまり、屏風絵を見ることで、当時の安土城の姿をかなり正確に知ることができる!
・作者は当時ナンバーワンの画家(狩野永徳?)
 サイズはおよそ、縦2m、横7.2m?(折り畳まれて、横1.2mの箱に入っていた)
・信長は、この屏風をたいへん気に入り、ごく限られた人にしか見せなかった。
・信長は、1581年にイエズス会巡察師のヴァリニャーノにこの屏風絵をプレゼント。
・ヴァリニャーノと4人の日本人少年たち(天正遣欧使節)と共に長崎を出航。
・およそ3年半の旅を経て、屏風絵と天正遣欧使節はローマ・バチカンに辿り着いた。
・地球の裏側からやってきた4人の日本人をヨーロッパの人々は大歓迎。
・天正遣欧使節は、当時のローマ法王・グレゴリオ13世に謁見。屏風絵を献上。
・法王は感激し、法王の住居と執務室を結ぶ廊下(地図の回廊)に屏風絵を飾った。
・しかし、その直後、グレゴリオ13世が急死。屏風絵の行方は分からなくなってしまう…


なぜ屏風絵が重要なのか、の一番は町の負債56億(H18)を軽減する為の観光の目玉にする為ではw その前に伊勢・安土桃山文化村から、復元安土城を買い取った方がいいと思うが。

ビョウブログ
伊勢・安土桃山文化村


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by currybeans | 2007-02-10 23:30 | ヤバイ