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デイリースポーツを一般紙に!・・・という訳では無い。


by CurryBeans
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残すつらさと残されるつらさ

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永井博士生誕100年「天国で家族一緒に」二女・茅乃さんの遺影も
永井博士の生誕100年を記念して3日、長崎市平和会館で開かれたコンサート。会場入り口には、この日を待たずに2日、66歳で死去した二女・筒井茅乃さんの遺影も飾られた。訪れた約700人は「天国で、家族一緒にこの日を迎えているでしょう」と、しのんでいた。
2月2日に一人の女性が亡くなられた。筒井茅乃さん。旧姓(永井)
長崎では知らぬ人は無いと思われる、永井医学博士の愛娘さんだ。
不勉強ながら、オレは永井博士の事をあまり知らなかったが、5日の読売新聞朝刊のコラム「編集手帳」で茅乃さんを通じてその人となりに興味を持った。
読売新聞さん、すいませんが全文転載させてください。

2月5日付 編集手帳
私が死ねば、幼い誠一と茅乃(かやの)はどなたかの手に引き取られるだろう。
そのどなたかにあえて礼を失することを言い残しておく――と、父親は書いた。
長崎の原爆で妻を失い、自身も死の床にいた永井隆博士である。
「何人(なんびと)といえどもこの子の前に、お父さん、お母さんと称(とな)えて立ちあらわれることを許さぬ!」(「この子を残して」)。
母と呼ばれるべきは亡き妻のみ、父と呼ばれるべきはこの世で自分ひとりだと。
迫り来る死に、「せめて、この子がモンペつりのボタンをひとりではめられるようになるまで…」生きていたいとも書いている。この子、筒井茅乃さんが66歳で亡くなった。
2年ほど前、京都府八幡市のご自宅でパインジュースの話をうかがったことがある。
小学1年の茅乃さんが学校の給食で出たジュースを父親の病床へ、お椀(わん)に入れて持ち帰ったときの遠い思い出である。
こぼさぬようにゆっくりと、すり足で歩いた。「途中でいたずらな子に突っつかれましてね」。
家に着いたときはお椀の底にひと口が残っているだけだった。おいしそうに飲む父親の顔をおぼえている。兄の誠一さんを7年前に亡くした。9歳のときに別れた父と、おぼろげな記憶のなかにいる母と、あの夏から62年余を経て家族がそろう天上の団欒(だんらん)である。
食卓にはパインジュースもあるだろう。


永井博士は島根県出身。長崎医科大学で放射線物理療法の研究に取り組み、在学中の下宿先の一人娘の緑さんと後に結婚。それが縁でカトリックに興味を持ち、後に洗礼を受けることにもなる。
終戦間際の昭和20年6月に、放射線研究による被爆で白血病と診断され、余命3年の宣告。
自らが選択した道とはいえ、8月9日に長崎に原爆が投下される事を考えると、定められた運命のようにも思える。人類初(広島に続いて)の原爆による被爆者である自らの身体が研究対象とは・・・。
「・・・しかし幸いなことには、私の研究したい原子病そのものが私の肉体にある。…」
(「この子を残して」より)


余命3年と宣告された時点で、子供達を託す事になった奥さんは、原爆によって自宅の台所で骨となっていた。子供達は疎開しており無事だったが、放射線によって余命3年となった我が身は、原爆によってさらに余命を縮められている。
「一日でも一時間でも長く生きてこの子の孤児となる時をさきに延ばさねばならぬ。一分でも一秒でも死期を遅らしていただいて、この子のさみしがる時間を縮めてやらねばならない。」
(「この子を残して」より)


この父を見て育ったからこそ、たくさん飲みたいであろうパイナップルジュースを、お父さんの為にお椀に入れて学校から自宅まで持ち帰ってあげようという、やさしい女の子に育ったんだろう。また、この子だからこそ1分でも1秒でも生きねばならないと、永井博士も強く思ったんだろう・・・。(;´Д⊂)

博士とお母さんは天国で60年以上待たされたけど、親として子の長生きは代え難い喜びだよね。そしてオレは、当たり前のように一緒に生活できる幸せを、改めてかみしめよう・・・。

己の如く人を愛した人(長崎市公式ウェブサイト)

長崎原爆資料館


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by currybeans | 2008-02-05 23:30 | Memorial